1月16日、元陸軍少尉の小野田寛郎さんが亡くなった。彼は第二次世界大戦中、フィリピンのルバング島に派遣された。日本はまもなく敗戦したが、彼の属するチームはそれを認識せず、命令解除もなかったため、途中で仲間を失いながらも、29年間フィリピンのジャングルで戦闘を続けながら生活を行っていたそうだ。1974年に日本に帰国し、ブラジル移住などを経て、最後は日本で自然塾を経営しながら暮らしていたそうだ。

僕は小野田さんが帰国する1974年以降に生まれたが、彼の事は有名なので知っていた。戦争が終わったことも知らず30年間もジャングルに潜伏していた哀れな日本兵というイメージだった。あまり情報収集能力がないがために、敵に怯えながらジャングルの中を生きることを強いられた人だと思っていた。だが、以下の記事を読んでそれが間違いであったことがわかった。
よく考えてみればわかることだが、敵に捕まえられずに29年間も作戦を継続できた事からして、軍人として相当に優秀であったのは間違いない。正式に日本からの命令解除が下るまで、日本は敗戦したという敵の情報は謀略だと信じなかったそうだ。どう判断したら彼にとってベストだったのかは分からないが、少なくとも軍人としては適切な判断で、それを続けるというのには相当な意志の強さがないとできないことだったと思う。

敗戦後、日本は飛躍的な経済成長を遂げた。そうして多くの日本人が平和と豊かさを享受している間にも、このように日本のために戦い続けてくれた人がいたのかと思うと感慨深い。当時の日本政府は全力を上げて彼に作戦解除命令を出すことができなかったのだろうか。

以下は、僕は上のインタビュー記事の中で興味深かったコメントだ。彼らは作戦を進める上でチームの能力や人間性をちゃんと認識していた。また、それに基づいて適切なリスク管理を意識しながら作戦を遂行させていたのだ。 あれから長い年月がたったが、緊張感のない仕事の中で生活をする僕らには彼らから学ぶべきことが数多くあるのかもしれない。
「体力的にも、僕と小塚とほかの2人には差があった。赤津には投降しようという気持ちがあるのが見えている。作戦継続している限り、それは逃亡です。でも、二手に分かれる時は赤津は島田と組ませていた。島田も、もし赤津が逃げてしまったら自分が一番下になるわけです。何だかんだ言っても人間というのは下に人がいてほしいものなんです。それがある意味足かせになっているんです」

「たいていのことは見逃しながら、4人での行動を維持していたわけです。ただし、赤津らが投降した場合は、行動ルートが敵に漏れるわけです。私と小塚はそれも想定して自分たちだけの『場所』も用意していました」

以下は、小野田さんに関するエピソード(Wikipediaより)。
  • 終戦後も29年間フィリピン・ルバング島に潜伏する
  • その間の戦闘で30人以上の兵士、警察、民間人を殺傷する
  • 1947年と1959年に2度死亡通知がだされる 
  • 帰国後の記者会見では 「恥ずかしながら、生きながらえて帰ってまいりました」とコメントする
  • 帰国後にもらった見舞金・義援金の全てを靖国神社に寄付する