カテゴリ: サラリーマン人生のこと

外資系企業というと実力主義のカルチャーが浸透している、
というイメージを持たれやすいが実でそうでない部分も大きい。
たとえば、英語ができて外人上司におべっかできる人も出世しやすかったりする。

では、ちゃんと数字を残しつつ、上司におべっかすればいいかというと
それほど簡単ではない。

なぜなら、おべっかするほどの必要英語力というのは並大抵でなく、
日本にいながら努力して得られるものでは到底覚束ないくらいだからだ。

僕は18まで田舎の高校でまなび、なるべく偏差値の高い大学を志し、
一浪後、希望する東京の大学の理系学部に入って、
大学院までいったあとに就職するという、わりと一般的進路をたどってきた。

初めて受けたTOEICはたしか500点弱だったと記憶してるが、
いろいろあって外資系の会社で働いて勉強しているうち、900を超えるようになった。
ちなみに海外での生活はしたことがない。

当初は、900点といば、もう英語ぺらぺらだろうと思っていたのだが、
全然だめなのだ。
さすがに会話が成り立たないことはないけど、おべっかなんてほど遠い。
そもそも、おべっかできる人というのは帰国子女など海外経験のある人がほとんどだ。
 
えらい外人にうまくおべっかはできないまでも、
ある程度よろしくやりつつ、英語がしゃべれなくもないところを認知してもらいながら、
結局のところ数字を出してそれを見せる、っていう戦略しか実は残されてないのだ。

たぶん、英語が得意な人はうらやましい、という気持ちは
外資系サラリーマン人生を続ける限り持ち続けることになるだろう。 

昨日は、家の近くのバーで飲んできた。
カウンターの横では30代半ばとおもわしき男女が、
(カップルかどうかはわからない。)二人で食事をしていた。
席も近く、彼らの声が大きいので、話している内容がまる聞こえだ。
内容は、女性が一般的な男性批判をして、
男性がそれに頷いたりつっこんだいりながら聞いているという形だ。

女性「男って女に痩せろ痩せろっていうけど、男こそ痩せるべきだよね。」
(僕の心の中:男女ともお互いエゴでは?痩せた男がすきならそういえばいいのに。)
女性「でも、腹筋をみせる男は嫌い。どんなにかっこよくても金持ちでもそれはイヤ。」
(僕の心の中:そんな心配するほどモテるようには感じないけど。。) 

ほかにも、彼女は色々と主張するのだが、
特に膝を打つような面白いものはなかった。
ただ、彼女の声のトーンでわかるのは、反論は一切受け付けないという姿勢だ。
反論しそうなものなら烈火のごとく噛み付くだろう。
男性のほうはそれをわかってるのか、うまいこと流していた。

反論を受け付けない、という人と話すのはとてもつまらない。
嫌な気分になる。
人にはいろんな考え方があり、それぞれ経験や教訓をもっている。
自分と同じだったり、違ったりする。
話をして楽しいのは、そういった考え方の交換だ。
感情的になってかたくなに擁護する姿勢になったら、もう議論は終わりだ。 

僕は常々自分の頭で考え、正しいと信じたことをやりたいと思っている。
ただ、現実的には、それほど自由にできない場面も多く、
たまには妥協なんかもして、自分の好ましくない方向も進んだりする。
王様でもない限り、自分の正しいと思うことだけをやり続けることはできない。

何も考えず会社の方針(上司の方針)に従うだけの人をたまに羨ましく思うが、
その人が如何に評価され、出世し、権力を得たとしても、
迷うことなく、正しいと信じる意思決定を下すことはできないように思う。

思考停止の状態で何かに従い続けるのは悪魔の契約なのだ。
その時は確かに迷うことなんてないし、実際に楽なのかもしれない。
しかし、いざ意思決定をくださなければならない状況に突き放されたとき、
その時初めて、自分の頭で考えることなんてできないのだ。

将来の意思決定者として考えるならば、
自分の頭で考え続ける必要があると思うが、
組織人として健全なありかたなのかどうかは良くわからない。

サラリーマンも会社という組織の一員なのであって、
指導者の方針に、みんなが一々疑ってかかって自分の頭で考えだしたら、
その組織が有効に機能するとは思えない。
僕は組織の人間であると同時に、自分の頭で考えたい一人の人間だ。

いったいどうあるべきなんだろうか。
迷う。迷ってばっかりだ。  

11月1日にフジテレビは「ほこ×たて」が放送打ち切りを発表した。理由にについては今更繰り返すまでもないと思う。詳細は水島宏明氏の記事がよくまとまっていてわかりやすいので、事情をよく知らない人は一読してほしい。

僕はあまりテレビをみないのだが、この番組はわりと好きだった。自らの技術に自身のある人々がプライドをかけて、真剣勝負をするさまはスポーツを見ているようでとても面白いのだ。一度見た「絶対に誰にも開けられない金庫×どんな扉でも絶対に開けられる鍵師」の戦いでは、鍵師の真剣な眼差しと金庫の製造会社社長の不安な眼差しが、とても印象に残っている。

僕は人が真剣に取り組む時の眼差しが好きだ。バッターボックスにたつ野球選手、食材を見分ける料理人、被写体をみるカメラマン。真剣に物事に取り組むときの目というのは何故だかわからないがとても美しくなる。僕らが真剣勝負を望む理由にはそういう美しさを求める本能があるからなのではないだろうか。

また、どれほど自らに自信のある人でも、敗北の恐怖を感じる時もある。今までの努力をあざ笑うような現実が今まさに起こるのではないかという不安だ。そのような興奮もまた真剣勝負の醍醐味といえる。そういう
人間の本質を写す表情は真剣勝負でなければ垣間見ることができない一種の美しさのものなんだと思う。

「ほこ×たて」の(
すくなくとも)一部はヤラセであったことはとても残念だ。信頼を失った番組が打ち切りになるのは当然だろう。このことについて僕が考えたことは3つある。

1.ヤラセはメディアの存在意義を否定する大罪だ

なぜヤラセをしたのかというと、たぶん制作する側が、「そのほうが面白い、視聴率がとれる」と判断したためだろう。基本的に面白いものを作ろうと思うことは当然だし健全だといえよう。だが、それには絶対におかしてはいけないルールがあることに気をつけなければならない。

そのルールは、単純にいうと「やらせをしない」につきると思う。視聴者が真剣勝負だと信じているなら、それを絶対に裏切ってはならないのだ。仮にそれを裏切るようなことになれば、視聴者からの信頼がなくなり、その結果、"おもしろくなくなって"しまうのだ。制作者側が面白くしようと思ってしたヤラセが、自分の信頼を落とし、結果的につまらなくさせてしまうというのは皮肉な話だ。

たまにフジテレビが海外ミュージシャンを推している事や、バラエティでお笑いタレントがアイドルを過剰にいじったりすることと同列に並べられるが、それとは次元の違う話だということは言っておきたい。海外ミュージシャンが嫌われてたり、
バラエティに過剰な行動があれば、視聴者は離れていくだけだ。「ほこ×たて」の問題の本質は視聴者を騙したことにあり、放送の信頼を落としたことこそが大罪なのだ。

2.うまくいかなくなったときの行動で本質が問われる
一方で、制作者側がそのような行動にでた気持ちは、おなじサラリーマンとしては理解できなくもないというのが正直なところだ。

企画した対決が思ったほど面白くないことも現実にはあるはずだ。メジャーリーグやプレミアリーグの真剣勝負でも常に試合が面白いとは限らないのだ。だからといって製作者側としては、「今回はつまんないけどしょうがない」では済まなかったのだろう。
彼らには彼らの責任感がある。おもしろい作品を作って世の中から評価され視聴率を上げることが彼らの使命といえるからだ。


成果を上げることは重要だ。しかし、成果がでないときほど本当に守るべきものを守れるかどうかが、自らの本質を問われるところなんだと思う。うまくいっているときは何とでも言える。仕事が順調でお金をたくさん持っている人が不正を起こすことはほとんどない。問題は、なにもかもうまくいかないときに、自分を律することができるかどうかだ。

人間はみんな弱いので、不正の誘惑があたまをよぎることもあるだろう。でも、そこで負けてはいけないのだ。 今、うまくいっている人が上から目線で不正を批判していても、自分がうまくいかなくなったときに、同じような行動をとってしまないように肝に銘じておく必要があると思う。

3.勇気ある告発者を称えたい
最後にこの不正を告発した広坂正美氏には敬意を表したいと思う。不正を告発するというのは非常に勇気のいることだ。彼にもラジコンを世の中に広めたいという気持ちや仲間からの期待もあっただろう。製作者側との人間的なつながりもあったことだろう。不正があったからと言って、それを世の中に告発するというのはとても難しいことなんだと思う。


人は他人を非難するときは一般論を叫び、自分を擁護するときは個別論をもってくる。不正を公表できないのには理由があるんだよ。その時の空気ではどうしょうもできなかったんだ、住宅ローンを組んだばっかりで雇用をはずされるわけにはいかなかったし、不正をした人には個人的に恩があっただよ、等々いろんな理由を持ち出してくる。

自分が彼の立場なら告発できたかどうかよく考えて欲しい。相手はフジテレビ。公表しても世の中が味方してくれるかわからないが、フジテレビを大きく敵に回す。もしかしたら、ラジコン界や仲間にも迷惑をかけるかもしれない。仕事における自分の立場も危うくするかもしれない。そういう恐怖に打ち克ってみんなに真実をかたってくれたのだ。僕はその勇気についてとても感謝しているのである。

 

世の中、ビッグデータという言葉がひとり歩きしてます。数学の博士号をもった人たちにデータを渡せばなんかすごいことをしてくれるんじゃないか、という単純な勘違いをしている人が数多くいます。ビジネス誌なんかを読んでいて、実務でも割と優秀な人なんだけど、数字には全く疎い、って人に多いんですよね、そういう勘違いって。そういうプロジェクトをするときは、実務経験とデータと分析能力のバランスのとれた人を巻き込むのが重要です。まあ、そんな人世の中にそう多くいるとは思えませんが。

ビッグデータープロジェクトが失敗に終わるパターンはいろいろとありますが、中でもわらってしまうのが、 データがないのにデータ分析をするっていうプロジェクトでしょうか。

これは普通におきます。データ分析をして人材採用モデルを作ってくれないか、という依頼があったりします。プロフィールデータから、会社に入って活躍するかどうかのスコアリングモデルを作ってほしいってことですね。これは普通に無理です。

データーって履歴書にある情報くらいしか残っていなかったんですよ。採用って履歴書だけで判断しませんよね。むしろ面接の方法を重要視するはずです。履歴書:面接=2:8くらいじゃないんでしょうか、採用の判断って。だから、いいモデルを作るには面接の情報が必要なんですよ。データ分析者にはそういう常識的な判断能力が重要です。

たとえば、面接しているときのやり取りがテキストで全部残っているとか、映像を録画されているとか、そいうならわかります。まさにビッグデータです。分析してモデルを作れば、優秀は面接官に勝てるかもしれません。でも、そんなのないわけです。履歴書の情報だけしかないなら無理ですよ。

それでも、なんとか分析してみましょうっていうデータサイエンティストはいるかもしれません。統計はわかっていても常識的な判断能力がない人はいますから。それで出てくるモデルは害以外何者でもありません。なぜなら数字は人を迷わせるからです。それも数学の博士号を持った人の分析結果となるとなおさらです。それで面接の情報よりも履歴書の情報(モデル)に左右されて、採用がうまくいかなくなっちゃったりするんですよね。

人の判断はときに論理的じゃなかったり、経験を過度に重要視してしまったりします。だから、客観的なデータ分析により、人の判断に勝てることもあります。でも、それはある程度データがあってのことです。実際に重要なデータが保存されてない状態で、統計分析して出てきた答えを使ってはダメです。

↑このページのトップヘ