カテゴリ: 哲学のこと

ジャーナリストの乙武氏が友人とTORATTERIA GAOZOという
銀座のイタリアンレストランにいったところ入店拒否されたそうだ。
そのことを乙武氏がTweetしたことが(フォロワーは60万人以上)ネット上なので話題になった。
http://rocketnews24.com/2013/05/18/329981/

簡単に背景を説明しよう。
乙武氏が友人と、そのイタリアンレストランに予約をし、訪問する。
店にエレベーターがとまらないようになっているため、
彼の友人(女性)が店の人に彼が入店できるように手助けをお願いしに行く。
しかし、店側はそれを拒否。
1階にに降りた店長と乙武氏との口論に発展した。
Twitterで騒ぎになった後、店側が謝罪し、
乙武氏もそれに応じたようなTweetをしている。

いろんな意見があるだろう。
車椅子の客を入店拒否するなんてひどい店だ、という意見。
店の事情を顧みず、店名まで出して非難するとはけしからん、という意見。

僕は、それを間近で見たわけではないし、
片方がジャーナリストということもあり、両者の主張を偏り無く聞けているわけではない。
なので、自信を持ってどちらか一方に非があることを断じることはできない。

だけど、このことに関して議論するとするならば、まず乙武氏のブログを一読してほしい。
その一件について詳しく綴られている。
彼はちょっとした差別(それは現実に存在する。)を大げさに言うような人間だろうか。
そして彼をここまで感情的にさせたものとは、いったいなんだったのだろうか。
 
「お客様は神様です。」と松下幸之助は言ったという。
それを勘違いした客が「店員は奴隷だ。」というような態度で接することをたまに見る。
いわく「こっちは客(すなわち神)だぞ。」と。 
それに対して店側は断固とした態度をとっていいと僕は思っている。
経済的な観点で言えば、その客が来ないことにより、不利益を被ることがあるかもしないが、
店にも守るべき尊厳があり、それをどう選択しようと彼らの自由であると思っている。

だが、今回はそれとは種類の違うものだと僕は思う。
店は差別を理由に入店を拒否したのだ。 
技術的に対応できなのであれば、その旨をちゃんと説明すれば理解してくれたはずだ。
店側にもいろんな理由があるだろうけど、
少なくともこの点に関してだけは猛省すべきではないだろうか。 
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Yahoo!知恵袋でこんな問いがあった。
「二股っていけないことでしょうか?
一人より二人を幸せにするんだからいいことなんじゃないでしょうか?」 

それについて、僕は考えを巡らせてみた。
二股はなんとなく悪いことだと思う。
でも、その理由なんて考えてもみなかった。
一体何故、それは悪いことなんだろう。
それは本当に悪いことなんだろうか。

そのYahoo!知恵袋には沢山の回答があったのだが
どれもこれも感情論ばかりだった。
いわく、
「屁理屈だ!」と。
「あんたもしょせん相手からされてるに決まっている!」と。
「バーカ!」と。

確かに、まっとうに生活している善良な人々の感情を
逆なでするような質問であることは確かである。
でも感情的に自分の考えを押し付けようとしたら、そこで考えは終わってしまう。

物事の本当に面白いものというのは、より深いところにある。
僕をその深淵を一つでも知りたいと思っている。
それを邪魔するものがあるとするなら、それは自分の頭にある偏見だ。
偏見というのには、多くの人が理由なしで信じている真理や原理だ。 
誰かに押し付けられた真理を感情的に守っていると
絶対に僕の求めている深淵には近づくことができない。 

誰かから感情的に否定されたとしても、自分の頭で考えていきたい。
偏見を捨てるというには、自己否定の勇気がまずもって重要なのだ。 
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どこかの国のミサイルが飛んできて自分の家族のいるところに命中することを想像して欲しい。僕らの恋人や友人の手足がブッ飛んで死ぬところを想像してほしい。戦争とはそういうことが普通に起こりうるし、もっとひどいことだってたくさん起こるだろう。僕はそんな目には絶対会いたくもないし、加害者として加担したくもない。僕は戦争を嫌悪する。殺し合いなんてまっぴらだ。

アメリカのオバマ大統領は8月31日に議会の承認後シリアに軍事介入を実施すると発表した。早ければ9月中旬になるという。 なんだまたアメリカは戦争を起こすんだろうか。僕たちは戦争という悲劇を経験して、そんなものはたくさんだとわかったはずなんじゃないだろうか。暴力で何かを解決しようなんて野蛮な考え方だ。・・といいたいところだが、話はそこまで単純でないこともわかっている。ここにいる僕らにとって平和主義を掲げるのは簡単だ。だが、世の中はそう甘くないのだ。

シリアの反体制派は毒ガス攻撃をうけて子供や女性を含む多くの非戦闘員が死亡した。心臓が弱くない人は下の動画も見て欲しい。このような惨殺を見過ごしていいのかについても僕らはよく考えるべきだ。日本では犯罪を犯すと罰金を取られたり刑務所に監禁されたり場合によって死刑にされる。犯罪の被害者になったら僕らは加害者に対しより重い刑期を裁判所に願いうるだろう。罪は罰せられなければならないんだと。自分が被害者の時は加害者に罪を望むが、遠い海の向こうの話にはそっぽを向けと?そういうわけにもいかない。なぜらならば俺たちはみんな同じ人間だからだ。



アメリカはアサド政権が化学兵器を使ったと断定したそうだ。果たして僕らはなんて言うべきか?正義のために罪を罰するべきだといえばいいのか?戦争はやめろ殺し合いはやめろというべきなのか?イラクの時みたいにミスしたんじゃないかと疑うべきか?それともそんな事を100%いいきるまで見過ごすべきではないと言うべきか?ところで、軍事加入を行えば物事は解決されるのか?国連の決定に従うべきなのか?なぜアメリカがやらなくてはいけないのか?でなければ現実的にどこがそれをできるというのか?

悔しいが僕にはわからない。一つ知っていることがあるとするなら、平和は平和を叫んでいても築くことはできないし、平和の上にあぐらをかいていれば自動的に維持されるものではないということだ。
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僕は「お金が全てではない!」「お金で買えないものもある!」という言葉には100%同意できる。人生にはお金以外にも大切なものはたくさんあるし、それらは大金を払っても得られなかったり、大金をもらっても譲れないものだったりするからだ。幸せとは、単純に経済的豊かさのみで決められるものではないのだ。

だが僕は「お金で幸せは買えない!」という言葉には同意できない。実際に僕はいくつかの幸せをお金で買っているし、もっとお金があればもう少し幸せになれるとも思っている。拝金主義に対するアンチテーゼなのか、お金のことをひたすら嫌悪すれば品位を保てると勘違いしている人もいるようだが、そういう人も実際は幸せをお金で買っているのだ。

僕はたまに焼肉を食べに行って、おいしいな、幸せだな、と思ったりする。これはまさしく幸せをお金で買っているといいっていいだろう。 焼肉を食べに行けるほどのお金を持つことができなかったら、この幸せを享受することができなかっただろうからだ。子供が病気になってしまい、それを治すには海外にいかなくてはならなくて、治療費が1000万円するとしよう。もし、十分なお金があったら子供を治すことができる幸せを得ることができるに違いない。

そもそも、理解しなければならないのは、僕ら日本人の大半は世界の中で極端な金持ちだということだ。教育を受けられ、様々な就業機会があり、安全で暮らしていけるのは、経済的な豊かさがあってのことなのだ。ただ、それに慣れてしまうと、それらがあたかも当たり前のように思えてしまうが、実は当たり前でもなんでもない。世界には教育を受けられない子供がたくさんいれば、焼肉を一生たべられない人だってたくさんいるのだ。

ものすごく裕福な家庭に育ち、あらゆるものを手にした人が「お金で幸せは買えない!」と言っても、あまり説得力はないだろう。僕ら日本人のほとんども実は同じだ。僕らは豊かな国に産まれて豊かでとても幸せだ。それはある程度の幸せをお金で買っているからにほかならないのだ。
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西麻布のクラブ「Muse」の経営者が風営法違反でつかまった。記事によると警視庁の人がクラブに入って経営者を現行犯逮捕したとのことだ。すでエーライフとかヴァニティとかフラワーみたいな有名なクラブは同様の理由で営業停止となっている。おそらく東京のクラブと名のつく所は次々と摘発され、その存在は近い将来日本から消えてしまうのかもしれない。

ところで、なんで逮捕されるんだろうか?風営法では、人が踊ったりする場所は営業許可が必要とされており、その場合は24~25時以降の深夜では店を閉めなければならない。つまり、クラブを運営するには次の2者択一が迫られる。

・ ここは人が踊ったりするクラブでーす。ちゃんと許可も得ましたー。だから25時までには閉めまーす。 
・ え?ここ?ク、クラブじゃないよ。た、たしかにDJブースもあるし、お酒もおいてるけど、踊るのは、な、なしにしてますよ・・。

クラブを経営しておいて、一番盛り上がってくる25時くらいにわざわざ店を閉める人なんているわけないので、前者を選択する人はおらず、結果的に後者を選びガサ入れされて摘発される、というのがパターンだ。

では、つぎの質問。なんで風営法はそれを規制するのだろうか。直感的にはわかる。つまり治安を維持するための規制だ。喧嘩、売春、ドラッグの売買、なんかが連想され、実際にクラブでの犯罪率の高さは他の場所に比べて高くなりやすそうだ。まあ、見た目で判断するのもなんだが、クラブにいる人は悪そうなやつが多いし、実際クラブに行く友達はどっちかっていうと、マジメくんではなくてやんちゃなやつが多い。

それはそうと、なんで最近摘発が増えているのだろうか。風営法は施行されたのは50年以上にも遡る。ここ最近の摘発の多さには恣意性を感じさせる。法律で禁止されていても実際に大目にみられ、実際に摘発されないケースは少なくない。一般人が19歳でタバコを吸って酒を飲んでいる人がいたとしても、それで厳しく摘発されることはほとんどないだろう。

おそらく僕らのしらない何かが水面下で進められているのだろう。超悪いやつらが、クラブで超わるい事をたくらんでいるという情報を当局がつかんだとか、超頭のかたい国会議員が、当局のトップにあーだこーだ言ったりだとかだ。真相はわからない。むしろ摘発の恣意性について、素人が簡単には真相をつかもとするのがそもそも無理な話なのかもしれない。

最後に、質問。これっていいことなのか。もしかするとクラブのあった周辺の犯罪率は下がるかもしれない。それは単純にいいことかもしれない。では、ダンスミュージックの文化はどうなるんだろう?酒を飲み夜中に踊りながら、はっちゃけたい若者はいったいどうすればいいのか?僕は、このような規制は緩和すべきだと思っている。つまり風営法を改正し、クラブの営業時間の規制を緩めるべきだと思っている。

もちろん犯罪率が高いクラブは、それを理由に営業停止されても仕方がない。でも、音楽がガンガンになって朝まで踊れる場所を、若者から永遠に取り上げるのはちょっとやりすぎなんだと思う。治安は守らなければいけないからといって、深夜外出禁止の法律はいくらなんでもいきすぎだろう。それと同じだ。若者は自由を再び勝ち取るために立ち上がって欲しい。このまま何もかも奪われたままで、草食のレッテルを貼られ続けるのにいい加減怒るべきだと思う。
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