カテゴリ: 社会のこと

Facebookとかで、自分の写真は載せないけど、子供の写真を載せる親がたまにいる。自分のプロフィール写真にも子供の写真を使っている輩もチラホラみかける。僕は、その人たちに言いたい。子供をペット扱いすんじゃねーと。

例えば、自分の写真を含め家族全員の写真を載せる事に対しては、目くじら立てたりはしない。自分の写真を積極的に公開する人が子供の写真を公開していても、まあそれはそれでありなのかな、とも思う。問題は、自分の写真を出さずに子供の写真だけど出している身勝手な親たちだ

僕は彼らの気持ちを理解しないわけではない。子供はとてもかわいいし、まわりも喜んでくれる。子供の写真をアップすることは一種の愛情表現のひとつなのだ。子供を産んだり育てたりするのは、とても大変なことだ。だから愛情表現をする権利は親にもあるし、まわりも喜んでいて本人も気にしていないのならそれでいいという考えなのだろう。

でも、その考えはあまりにも身勝手だ。子供をペットか何かと勘違いしているのだろう。

言っておくが、どんなに苦労して育てようが、子供には子供の人権がある。彼らはペットではない。 どんなに苦労しようが、自分がいなければなにもできない自分にいいなりの対象だろうが、子供も人間だから人権がある。それを尊重できないのなら、親になる資格なんてない。

たとえば、あなたの親が自分の写真をFacebookのプロフィールに載せていたらどだろうか。自分に許可なく、親が勝手に自分の写真を載せていたらどう思うだろうか。自分の写真を載せいない人にとっては、思うことがあって載せていないのだから、それはとても迷惑な話だろうと思う。でも、あなた自身はそれをやってると認識すべきだ。

いろんな反論があるかもしれない。自分の子供と私は違うとか。でも、それこそが親のエゴなのだ。自分の人権だけを身勝手に尊重するように主張しながら、子供の人権を無視しているのだ。

どんなに子供がかわいくても、まわりがよろこんでくれようとも、そしてそれが愛情表現であっても、子供の側に立って発想ができない親は親ではない。親はまずもって子供をまもるべき存在なのだ。そのことを自覚せずペットを扱うような態度で子供に接する親を見ると失望を禁じえない。

僕の好きなカータンblogでは、カータンが写真に出てくることはあっても、子供が顔を隠さずでてくる写真はでてこない。これこそが、親の持つべき態度なんだと僕は思うのだ。

朝日新聞が慰安婦問題で訂正記事を出した。

慰安婦問題の論点について世の中ではどのように理解されているのだろうか。韓国の女の子を戦場に連れてってやらしいことをしていたというのが悪い、という論点で考えている人が未だに多いかも知れない。それはそれで確かに問題かもしれないが、議論の論点ではない。

もちろん、その行為自体は、現在の道徳概念で考えてみると、人権侵害も甚だしいと言えるかも知れないし、今後そのようなことは決してあってはならないことだと思う。 でもね。それはどの国でもやっていたこと。日本だけがそれを責められる筋はないと思う。みんなで、お互いに反省すべき。日本も慰安婦の存在自体は認めているし、それなりに謝罪はしてきていると思う。

問題の論点は、日本軍が関与して強制的に女の子を連れて行き、性奴隷として使っていたということだ。そうだとしたら、いくらなんでも酷い。でも、それは事実ではない。実際は、兵士よりも数倍の給料をもらっていたし、軍が強制的に連行したという事実はない。

事実はないのになぜ問題になったか。それはガセネタが広まったから。なぜガセネタがひろまったか。それは朝日新聞が、間違えてそういう報道をして今まで訂正をしてこなかったからだ。

そのおかげで日本は、多くの国から批判をうけた。なんて野蛮で酷いことをする国だ、と。だが、いわれのない事実を責められたからといって、それを認めるわけにはいかない。風俗に行った人がレイプ犯だと言われるようなものだ。それを認めないがゆえに、さらに批判をうけた。酷いことをしたうえに謝らないなんてどういう国なんだ、と。

事実でない記事で日本のイメージを地に落とした朝日新聞の罪は重い。さらにずっと訂正してこなかった罪も相当思い。今さら国際的な世論が、ああ、そうだったのか、と納得してくれるわけがないからだ。日本は事実でないことで誤ったりせず、ちゃんと時間をかけて丁寧に事実を説明していってほしい。

かつてアルベール・カミュは「シーシュポスの神話」でこう言った。
真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。 自殺ということだ。 人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。
今日、理化学研究所発生・再生科学総合研究センターの副センター長である笹井芳樹氏が亡くなった。自殺だそうだ。36歳という若さで京大教授に上り詰めた日本を代表する世界でも有数な科学者を、僕らは今日失ってしまった。彼は再生医療の研究で世界にとてつもない貢献ができたのかもしれない。とても残念だ。

原因ははっきりしてない。でも、僕はイジメが原因なんだと思う。メディアが社会が彼をいじめたからだ。STAP細胞の件では、もちろん一定の責任はある。その責任を負うのはプロとして当然だ。だが、彼を死に至らすほどに社会が責める必要はあったのだろうか。彼は本当に死ぬべき人間だったのだろうか。

笹井芳樹氏を自殺に追い込んだ社会を僕は嫌悪する。いじめていい、そう思った瞬間にみんなは袋叩きにする。イジメ問題は、あたかも全く非のない人間をいじめているように論じられるが、実際はそうではない。社会がが非のある人間をイジメていいという空気を醸成するのだ。そもそも非のない人間なんているのだろうか。

僕は、この社会が怖い。とても不条理だ。カミュが描いている不条理な社会は、実はいままさに実在するこの社会のことなのだ。


 

個人情報が盗まれてニュースになったりするが、自分の個人情報がそもそもどれだけ守れているかなんて考えたことないかもしれない。自分や家族の情報なんて、それこそありとやらゆるところに提供している。市役所・区役所、学校、会社、銀行、クレジットカード会社、保険会社、ネットショップ、ポイントカード、友達、恋人・・数えあげればキリがない。その全てが自分の情報をちゃんと守ってもらっているというのは、いくらなんでも考えが甘すぎるだろう。

情報はどこかに集められて、人間の手で管理されている。多くの人は情報を第三者になんて渡したりしないだろうが、それは確率の問題に過ぎない。ベネッセで情報をもらした犯人も、借金で金に困っていたのだという。本当に金に困っていたら、悪いことに手を出してしまうかもしれない。人間は弱い生き物なのだ。

そして、その弱い人は一定の確率でほぼ確実に存在する。警察にも役所にも銀行にも友達にも。だから、かならずどこかで情報が漏れている、あるいは漏れる可能性が十分にあると考えるのが妥当だろう。そもそも、ほとんどの個人情報なんて本気をだされたら、全く守ることなんてできないだろう。

まず、尾行されたら住んでいる場所なんて簡単にわかる。職場もわかるかも知れない。住んでる場所がわかったらポストをみれば名前もわかるし家族構成もおおむね見つかるだろう。ネットで調べれば、Facebookから情報がわかる。生年月日や学歴なんかは簡単に拾えるだろう。自分はほとんど情報を出していなくても友達の情報からおおむね推測がつく。

まあ、その辺もプロの探偵とかに頼めばより効率よく調べてくれるだろう。ちなみに、探偵にたのめば、携帯番号だけで、名前や住所をしらべてくれるそうだ。さらに預金の残高もしらべられるというから驚く。実は個人情報なんて既に漏れているのだ。まあ、銀行も携帯電話会社もあれだけ社員がいれば、悪いことする奴がいてもおかしくない。

これらが大問題にならないのは、ほとんどの人が直接の被害にあってないからだ。情報をしったところで価値がない人がほとんどだから、誰も本気で探したりしないに過ぎない。守られているというりも誰も攻撃していないという方が正しいのだろう。でも、一旦ターゲットにされ、数十万くらいのお金をだして本気をだしたらもう終わりだ。個人情報なんてその程度の薄い壁にしかまもられていないのだ。

特に大企業のサラリーマンの方ならよくわかると思いますが、けっこうな人が思いつきで、どうでもいい仕事を増やしたりします。それに一生懸命応えるために、いろんな人を巻き込んで、いらない会議やら作業やらが増えます。そういったどうでもいい仕事というのは、僕の肌感覚から言っても相当程度あって、それは仕事の生産性を著しく下げています。

とかく 問題なのは、エライ人からの思いつきの発言で、それをそのまま部下に丸投げするという構図です。そして、まじめな人ほど、それに応えようと一生懸命時間を使うことです。もちろん、そのエライ人にとっても、それを実現しようとする人にとっても、それらは善意による行為です。良かれと思ってやってます。その良かれと思っていることが、会社の生産性を下げているというのがなんとも皮肉なところです。

かつてカエサルはこういってます。地獄への道は善意で舗装されている、と。みんなで一生懸命アイデアをだし、時間をかけて実現させた結果、生産性が下がり会社の業績が悪くなるわけですから、まさに地獄への道をせっせと舗装しているわけです。それも真面目に発言して、真面目にそれを実現しようとしている人たちがです。

僕に言わせると、必要もない仕事をつくったり、それに時間をかけたりすることは、いかにそれが善意によるものであったとしても、それは悪です。ヒマだから何かしようとして、人と時間とカネを使うくらいだったら、なにもしないほうがマシです。何もしないのは給料泥棒ですから、それはそれで悪ですが、生産性を悪化させるよりはずっとマシなんです。

ですので、上司からの仕事の依頼があきらかに意味がない場合、可能であれば、「それはやらないほうがいいと思います。なぜなら~からです。」とちゃんと説明して、それをやめさせましょう。かと言って、ゼロ回答でプッシュバックするのは、なかなか難しいことです。 そこでセカンドベストの策として、誰も巻き込まずやっつけ仕事でぱっぱと終わらせましょう。誰からも褒められないかもしれませんが、実は会社にかなりの貢献をしています。

ある程度組織が大きくなると、官僚機構になり、必然的に余計な仕事が増えていきます。そして、生産性が悪化します。生産性悪化を食い止めるということは、生産性改善させてるのと同じです。よく、”生産性改善プロジェクト”とかやったりしますが、”日常業務で非生産性な仕事を増やさない”ことの方がよっぽど重要なのです。

ところで、なぜこのように生産性を悪化せてしまうような事がおきるのかというと、それは学校教育に問題があるのかもしれません。学校教育ではなんでも全力投球することが賞賛されます。マジメ君がほめられます。そして、マジメ君ほど勉強を頑張って大企業に入ります。

学校では確かになんでも全力投球してもかまいません。ただ、会社は違います。会社ではある程度の生産性を確保しながら利益を生まなくてはならないからです。生産性が悪くなれば、給料がさがるかもしれませんし、あるいはリストラをして従業員をクビにしなければならないかもしれません。場合によっては倒産してみんな路頭に迷ってしまうことになるかもしれません。みんなの幸せのためには、最低限の利益を確保し続けることが重要なのです。

だから、真面目に取り組んだからといって、その結果生産性を下げたとしたら、その人は糾弾されるべきです。会社と学校は違うんです。マジメに先生の言う事をきいてきたエリートほどそういう行動に陥る危険が伴います。サラリーマンたるもの、やっつけ仕事はパパッと終わらせるべきなんです。そして、帰りに一杯やりながら、上司と会社のグチをいう事にこそ時間をかけるべきなんです。

↑このページのトップヘ