僕は、努力することそれ自体には何ら価値はないと思っている。

何かを成し遂げてこそ価値を生み出すのであって、それがいかに努力したかどうかというのには関係がない。努力することが褒められるのは、それによって何かを成し遂げられる可能性が高いからである。何も成し遂げもせずに「努力がみられたからおっけー」的な解釈は本末転倒だ。努力を自己目的化する傾向をみると、甘ったれんな、と言いたくなる。

例えば、あるマジメな野球チームがあったとしよう。 いつも練習に来ているけど下手な人と、練習には全然来ないけど上手い人とがいるする。どっちを試合に出せばいいだろうか。勝ちたいんだったら、上手いやつを試合に出したほうがいいに決まってる。以下では想定する反論に対してコメントしたい。

■ チームのマインドが下がる
まず根本的に目的の捉え方が間違っている。このチームは野球で勝つことをが目的なのであって、仲間うちの満足度を最大化するのは目的でも何でもない。うまいやつが試合に出れる。うまくなるために練習しよう。それでおっけーだと思う。

■ 努力の大切さを学ばせる
努力が大切なのは、努力によって何かを生み出す蓋然性が高くなるからである。努力は手段であって目的ではない。努力の大切さを学ばせたいのであれば、毎日練習に来ている人を下手なままにせず、意地でも上手くなるように鍛え上げるべきだ。努力によって上手くなる。これこそが、努力の大切さを学ばせる唯一の方法なのだ。

僕は努力に意味はないとは言っていない。むしろとても重要だと思っている。ただ、それは手段としてだ。プロ野球選手になるにはいくら才能があっても、相当の努力を積まなければならないのは考えなくてもわかるだろう。僕がたまにイラっとくるのは、努力を認めてください的な甘えだ。価値を生み出すために努力をする。いい大人は努力だけで褒められようとするのはいいかげん卒業して欲しい。