あるコミュニティーにおいて、暗黙のルールが自然と醸し出されるときがある。それを破る人のことを、KY(空気読めない)と言ったりする。僕は遊んでいる時なんかでは、そのルールに従い雰囲気を壊さないことを優先するが、仕事などで空気よりも優先すべき何かがある場合は、進んでKYになる。なんでもかんでも、「あのときの空気では仕方なかった。」という言い訳をするような人間を僕は信用しない。

空気、すなわちコミュニティーにおける暗黙のルールというのは、小規模で短命な宗教だということができる。日本人は、宗教と聞くだけで非科学的で怪しい集団だと決め付けるが、暗黙のルールをコミュニティのメンバーに強制する空気というのも、そのひとつといっていいだろう。自分のコミュニティのルールは絶対化するくせに、ほかの宗教を気持ち悪い集団とするところがなんとも滑稽だ。

宗教の定義は、それ以上疑う事をしないルールを共有する集団、あるいはルールの集合体と僕は定義する。だから、なんの根拠もなしに作られるコミュニティーのルールは、瞬間的にできた教典みたいなもで、それに疑いもなく信じるものは信者と言うできるだろう。(ちなみに可科学的な考え方を無根拠に正しいと信じている人々もある種の宗教団体だと思っている。)

宗教と聞けばなんでもかんでも気持ち悪がるひとに限って、空気を読むことに自らがその短期的な宗教に振り回されている傾向があるように思う。自分自身の根拠となっているしっかりとした考え方(自分教)のないひとは、軸がないがゆえに自分を見失ってしまうのだ。